昭和51年9月7日 朝の御理解



御理解第四節「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 今日は皆さんに聞いて頂くことは、本当に私が確信のある、これはいつも私が言うことですが特に確信をもって皆さんに聞いて頂くお話し。
 そして絶対のおかげの頂けれるお話し…。私は今日四時の御祈念(親先生は毎朝四時に御祈念に入られ正五時に終えられる)を終って座った時に、いつもよりたくさんお参りがあっておるので嬉しかったです。
 お参りが多かったからでなくて、今日私の御理解を生で聞いて下さる、そしてああそうかと、それを分かって下さったら、それだけたくさんの人が実際のおかげを受けて下さる方があるという事になるから、今日たいへん嬢しかったです。
 やっぱり五十人の者に聞いて貰うより百人の方、百人の者に聞いて貢うより何百人の者に聞いて貰うこと、しかも、生でこう聞いて頂けることが、私は今日は皆さんにお礼が言いたい程有り難いです。
 今日はこの御理解四節から、そこんところを聞いて頂くから一つしっかり…。
 おかげ頂かんでよい人はさておき、おかげを頂かねばならないならぜひここんところを聞いて守って、おかげを頂きたいと思います。
 此方金光大神あって天地金乃神のおかげが受けられるようになった。神様からも恩人、私共からもいうならおかげで天地金乃神さまのおかげを受けられるようになったのですから、確かに双方からの恩人。これは皆さんが分かっておられる通りですね。
 だから金光大神の言うことを、教えたことを、それを守って信心せよ、と金光大神の言うことに、そむかぬようにとある。そむかぬよう、よく守って信心せよとある。
 だからこの四節は、分からせるということと、おかげを頂かせるということが一諸に説いてあるということですね。
 分からせるということは、ああ金光大神様の御信心というのは教祖様という方が、それこそ無類の御信心をなさって、天地の親神様から御依頼を受けられて、そして世の中の難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれという御依頼を受けられて、人が助かるようになった。
 だから神さまも、金光大神あって世に出ることができられたと、またおかげを受ける私共もまた、金光大神のおかげで天地金乃神様のおかげを受けられるようになったというのですから、やっぱり此処は分からなければいけない。
 その次のところは、だから金光大神の言う事にそむかぬようによく守って信心せよと言うことでございます。ところがなかなか金光大神の教えておられるそれを、それがそのように守られるという事がまあ至難であります。
 私は今朝からお願いさせて頂いておりましたある難儀な問題を抱えて、どうでもおかげを頂かねばならならない…。そのことをお願いさせて頂いとりましたらね、「お前でもおかげを受けたんだ」、いうならお前のような人間でも、いうなら大坪総一郎と言う粗末な、いうなら最低の人間でも、これだけのおかげを受けたじゃないか、というのです。
 本当に私のようなものが、もうそれはきりがないと思います。どうして私のような者の取次ぎで人がどんどん助かんなさるだろうか。しかも本当に嘘のような、それこそもう本当に嘘のようなことが毎日続いておるということは、どうした有り難いことだろうか。神様は、私のような人間でも、このようなおかげを受けておるのだから、皆がおかげの受けられん筈がないということです、皆さん。
 私の様な人間が頂いた、頂いていっておる、これからも増々頂いて行くことであろうそんなら、私のどこに神様が感じて下さって、おかげを下さるだろうか、と私が思うた。
 これは、事実おかげを受けて有り難い体験をしておかねば言えない事です。そんなら神様が私のような人間でも、そうです、私のような、まあ昨日の御理解から言うと、けもの扁が心の中にいっぱいあるということです。・
 それなのにこのようなおかげを受けておるのは、そんなら神様は、私のどこに感じ、どこにおかげを下さる元があるだろうかと、私は今日思わせて頂いたら、松茸を頂きました。
(松茸とは松の信心と竹の信心のおしらせの事)
 そして私が御祈念中に感じたことは、ははあ私には松と竹の信心が、まあできた、まあ何にもできないけれども、この信心ができとったということです。
 だから皆さん、どうでもこの松と竹の信心を貫きさえすれば、必ず絶対おかげが頂けるのです。
 松というのは「豪気な」とか「元気な」というですね。もっと言うと木扁に公と書いてあるから、心を公にと言うけど、それは一遍に大きくなれるものではありません。段々おかげを頂かねばならん。
 けれども此処に、元気な心で信心せよと神様が教えておられましょう。だからその元気な心で信心するということは、私は貫くということだと思うです。前の御理解にありますように、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならんと、その辛抱こそと仰せられるようにです。これは元気な松の心がなからなければできることじゃない。
 もうゆうべおそかったけん…。例えば咋日高橋さんやら久富正義さん、秋永信徒会長やら秋永文男さんだん(などは)ゆうべは恐らく一睡もしとらんでしょう、話しとりましたから。それでもやっぱり参って来ておる。
 そういう信心にはどうでも、そんなら私のような心の中には「けもの扁」ばっかりの例えば人間であってもです、この貫くということが必要です。なるほど考えてみると貫いてきたなあと思うのです。
 例えばお参りならお参りーつでもです、朝参りーつでもです、私は言い訳をしたことがなかったです。
 商売をしとりましたから、あららこちらに出張に出て参りますと、やはり御祈念の時間に起きてから、宿屋の女中にこの辺の近所には金先様の教会はどこにあるかちゃんと聞いておく。そして必ず朝の御祈念にお参りをする。そんな時でも、もう今日はどこに行っとりましたから、ご無礼しましたと言うことは絶対なかったです。
 私は今日は皆さんにね、あの皆さんがよく言われますよ。本気で朝参りなら、朝参りをします、と言うてそれをすぐ止めてしまう。貫きなさらんです。
 結局松の心が足りんのです。お参りだけじゃありませんよ。例えば教えを頂いて、もう本当に腹を立てんぞと、これを貫く心は松の心です。
 いつも松の心は豪気な、元気な心と頂きますけれども、なら、竹の心はどういうことかというと、素直ということです。
 生れつき私は素直だったなあと思うのです。もうとにかく私は自分でも思うのですけども、やっぱり馬鹿ほどに素直だったなあと思うのです。
 長ずるに従って、それが信心でいう素直さというものがだんだんできてきた。
 私の家の隣りに叔父がおりましたが、もう大変可愛がられました。もう足を揉んでくれ、腰を揉んでくれ、と言われると、もう気持ちようちゃんと寝てしまっとるです。そうするとね、目を覚ますまで揉みよるです。良い加減で立ちきらんのです。
 たいがいならごうぐって(揺さぶる)起して、「おっちゃんもうよかの」、と起すでしょうけれども、もうとにかく、「あら、まあだ揉みよったか」というて言われるようなそんなに、いうなら人間がよかった。馬鹿んごたるところがあった。
 人に金を貸してくれと言われるなら、もうどうかして貸して上げにゃいけん。
 持たんならもう、借りてでん(でも)どうかして上げにゃできんというような、俺はこげなこっちゃ、こげなふうたらぬくか(いやと言えない性分の事)こっちゃ自分は儲け出しきらんと思いながら、もうこれは本当です。
 ところが、その私のふうたらぬくいまでのです、素直さが信心で磨きをかけられた時、神様がどういう御無理をおっしゃっても、泣く泣くでもいやと言わず、今日まで来たということです。理屈を言わずに。
 神様がもう私にサイダーを飲むなと言われてから、もう五・六年になるでしょうか。なぜか分からんです。そんなら、コーラを何本も飲むですね、のどが乾くから。
 それまでは三つ失サイダーをたくさん飲みました。ところが今日からサイダーを飲むなと言われるから。
 そのかわり飲みたい時にはビールを飲んだらよかろう。ビールも四・五本まではよかろうとお許し頂いとるけれども、まあ四・五本も飲んだことはありませんけれどもね。それがなぜか分からんです、私は。
 なぜビールなら飲んで良いが、なぜサイダーなら飲んでいけんのか。ただそこは理屈じゃない、神様がそう仰せられますから、守るだけのことです。
「神の言うことをよく守ってそむかぬよう」、合点が行かなければ守らんというのは、これは純粋さがない証拠です。
 そうでしょうが。親先生がああ言うてじゃからただ守れば良いのです。
 それも、あれもこれもということはない。せめて自分の心の中に誓った、神様の前に誓った、お取次を頂く事も神様に誓ったことです。
 それを、皆が好い加減にする。神さまがその気になっておかげを下さろうとするけれども、その気になってござる神様に、尻を向けるようなことですからおかげが頂ける筈はありませんよ。
 私のような人間でもおかげを頂いてきた。だから神さまは、「お前のような人間でも」と言われるのです…。
 咋日の御理解から言うと、「けもの扁」だらけだけれども、そういうお前であっても、おかげを頂いてきたではないか。だから誰れ彼れがおかげ頂かん筈がない。だから「このことを教えてやってくれ」と言わんばかりの御理解だったと思うです。
 そんなわけで、私がおかげを受けられたわけを頂いたことが松茸です。そして私が思うことは、ははあ私は本当に松の心と竹の心を持っていたなと。素直な心が私のまあ信条であったと思うた。
 そういう信心辛抱させて頂いているうちに、だんだん分からせて頂けたことは、天地日月の心になることが肝要だということは、成行きをいよいよ大切にして行く、尊んで行くことが、いよいよ真の信心にならせて頂いて、もし私がいろいろお徳を頂いておるとするならばそういう信心によって、お徳を受けてきたということです。だからまず…。
 おかげを受けるということは私共が松茸(松竹)の心になることだ。心の中にどういう浅ましい心があっても、これだけは一つおかげを頂き、貫かせて頂く。
 そしてその貫く信心からだんだん本当なものへ、本当なものへ一つ貫かせて頂いたら二つ、二つが貫かせて頂いたら三つ。
 先日、教師会の時にある先生が発表しとられました中に、もう今日で丁度まる二年になります。お参りのおかげを頂くようになって、一年間だけは本当にもうそれこそビックリするようなおかげを頂きました。
 教会の上に永年の信心でしたけれども、第一壮年部会もなからなければ青年会もなかった。それがまたたく間に青年会ができ、婦人会ができ、杜年会ができた。
 そしてお広前が広うなって、楽室ができ、炊事場ができ、というようにおかげを頂いた。一年間のあいだは、素晴らしいおかげを頂いた。それは私の、ただ親先生の此処の大坪の真似だけでもさせて頂こうという気で、おかげを頂きました。
 ところが二年目となったらごっとり(全く)おかげ頂かんようになったと言われます。だから一年間はシャープなおかげを頂かれたけれども、一年過ぎたらどうしてこげんおかげ頂けんごとなったじゃろうかと言われます。
 それで私が、「もう神様が形の上だけではいかんとじゃろうの」と申しました。その先生は本部の役職にもついておられます。だから大変顔もひろい。ですから本当に私は合楽でこげなおかげを頂きよるということが、平気で言えれるような信心にならなければいけん。
 けれども合楽にお参りしよるということだけはもう、ぎっすりかくしきっておられるというところにね、まあそうは言いませんでしたけれども、何か此処にひとつ元気な心を出しなさらなければ、なにか守って行かなければ、これ程合楽で合楽示現活動に参画するということが言われているのに、参画なさらなければ、もう真似だけではいけんのでしょうねということでした。
 けれどもこれはね、今日皆さんに聞いて頂いとる松茸(松竹)の信心するようになったらです、もう次の教えを頂いて、守らなければおられないほどに必ずなってくるということです。
 この松茸(松竹)の信心をしよったら、そこには必ずお徳が約束されるということであります。
 私は今日は皆さんに、私のようなものが、私のごたる者がと皆さんに聞いて頂いたけれども、本当に昨日私がお取次さして頂いた〇〇さんだけが、あなたの心にけだものの心があるね、というのではなくてです、後で考えれば考える程、私自身にもけもの扁がいっぱいだと気がついた。と言うのは丁度昨日、御祈念の後に高橋さんがお取次を願われました。
 「先生、今朝家内がこげな(こんな)不思議なお夢を頂きました。もうそれこそ広々とした大きな舞台がある。いわゆるステージがあるわけです。そのステージの上に大きな象がね、こうやって上って行く。その後に狐とかね、猿さんとかね、さまざまな動物がめいめいに旗を持って象に続いて、そのステージに上って行くところを頂いた」と言うのです。
 私はそれを聞いてがくぜんとしました。あんた達の上だけに「けもの扁」があると思うとりましたら、そげなだんじゃなか、こっち自身にあることです。「そりゃ高橋さん今日の御理解ばい」(ですよ)と…。
 その大きな象は私のことじゃろう。象のお知らせは慢心と頂く。鼻が長いでしょう。だからその大きな象が舞台に上って行きよる。それからさまざまなけだものが象についで、しかも旗を立てて、おそらく合楽示現活動に参画するという旗ではなかったじゃろうか。 いよいよ和賀心時代を世界に敷くという旗ではなかったでしょうか。
 そういう例えばけだもののような心を持っていても、それこそ私のような者でも、お役に立ちたいという一念だけは誰れにも負けんという信心。
 いうならば大坪総一郎について踊る人、私の手にも足にもならせて頂く、頂こうという人、それこそ昨日の繁雄さんのお話しじゃないけれども、御用するでなくて、ご用させて下さいというものだということ。
 その御用させて下さいという一念をです、お役に立ちたいの一念をもって、神様におすがりをしていくならば、例え心が「けもの扁」でありましても、けもの扁でないかのようにして、いうなら、どういうことですか、最近言うようにおかばいを下さるのです。
 お前にはそげな汚いところがある。けど汚いところはないもののようにして、ただ良いところだけを取り上げて下さって、おかげを下さる、お徳を下さるというのです。
 昨日の朝までの御理解は、ああ私のごたる「けもの扁」がある者はおかげを頂ききらん、と言うてこれを取り除くならもう人間止めにゃん(ねばならぬ)ごたると、思いなさった人もいくらもあんなさったことだろうと思う。
 例えばそういった人であっても、自分ながら自分の心を見て浅ましいと思う心があっても、けれどもお役に立ちたい」という心を、燃やさなければいけないと思うです。
 昨日の御理解、いつものことですけど、生きた御理解と思うのですが、咋日久留米の井上峰子さんが、やっぱり同じようなお知らせを頂いた。いわゆる昨日は、喜びの苗を育てるというようなことを申しましたね。くさ冠に田、切角信心の苗がこうやって育って行っておるのに、それにけもの扁がつく。
 けがれた心を持っておるから、それが猫、猫という字になるでしょう。猫は不浄という時頂くお知らせ。不浄(不成)とは物事願いが成就しないこと。井上さんが頂いとられるのは、鯖の干物、サバという魚を、三枚におろしたのを食べておる。こちらには苗をいっぱい置いてあるというお知らせ。ああそれは今日の朝の御理解ばい(ですよ)。あなたのは鯖というのは佐田さんの佐と書いて馬と書く佐馬と…。(佐とは人扁に左、合楽教会の親先生の御結界は左にあることから、左の人即ち親先主の事。馬とはいやしい心のおしらせ)
 これは合楽的めぐりと言われておる。類は類をもって集まると。結局私が持っておる、なら、私と同じ汚いものを持っておる者が皆ここに集まる。ですからその気になれば私の頂いてきた、松の心も竹の心も皆さんの心底にはあるということです。
 それをフルに出していくということです、ということなんです。合楽的いうならけもの扁がある、鯖のおしらせを頂いたと言うのです。
 だから本気でこれで良いということは決してありません。そのけもの扁をです、いうならばひとつずつでも取り払うて行こうというのが、日々の改まりですから、改まってもいかねばなりませんが、今日はどうでも皆さん、おかげを頂いてもらうという事のために、私のようなものでも、お前のような人間でも、今日こんなおかげを頂いておるじゃないか。此処に参って来るものはお前よりも、もちっとましなものばかりだ。だからおかげの受けられんことはない。けれども、これだけは、しっかりと言うといてやれよ。これだけはしっかり守ってくれよ。神がおかげをやろうとその気になっても、氏子がむこう向くならやりようがないじゃないかと、神様は今日言うてごぎるという感じです。
 だからあれもできん、これもできんけれども、この松の信心と竹の信心だけはどうでも本気で…、親先生の前には平身低頭、親先生の前にはいよいよ親先生まかせになる心、どうしてと言い訳を言わずに親先生が右と言われるから右、左と言われるから左という素直な心にならせて頂いて、いよいよ自分の心の中の誰れでもある、出せば出せれるところの、その元気な心、この松茸の(松竹)信心ができる時におかげは必ず生みなされてくる。 それはもう絶対です。まあ今日は私が確信をもって言えることは、私のような人間でも、振り返ってみると私は馬鹿のように素直だったなと。
 私は本当にどうしてあんな勇猛心というか、元気な心というか。此処の西郷(田主九字西郷)に千代田さんという方がおられます。いよいよ難儀の、仕事も何にもない時ですから、農業の加勢に行きました、仲の良い友達ですから。もう慣れない百姓ですからへとへとです。けれどもやっぱり取り上げ(とりいれ)には早いけれどまだ皆起きらん先に、井戸でお水をかぶって、そして、糀目を通り抜けて善導寺の親教会にお参りしたものです。 もうどこにどうしておっても、もう言い訳をしなかったということです。今日はこげな訳でお参りできませんでしたと言い訳しませんでした。
 どこに神様がおかげの用意して下さってあるか分からんのに、お前が昨日お参りせん時によそにやったと言われるならどうするですか。
 そんなもんですおかげと言うものは。貫くという元気な心、それを誰れの真似、彼れの真似ということはいりません。自分自身の心の中にこうと誓う、かくと思うたら、また神様にお取次頂いて神様にお誓いしたならです、それを曲げるようなことでは、おかげになりません。
 今朝の御理解、一つ本当に馬鹿程に純粋な、まあ素直なと言うか、せめて此処にお参りして、先生が言うことだけには一つ素直にならせて頂くおかげを頂くということがそのまま金光大神の言うことにそむかぬようにと、いうことになるのじゃないでしょうか。
 簡単に言うてありますから、読み過すところですが、金光大神の言うことにそむかぬようによく守ってとありましょう。よく守って信心せよです。
 だから金光大神の教えて下さることの、あれもこれもとはなかなかできませんけれども、今日はその松と竹のことだけは本気で守らせて頂いて、おかげを生みなして行くところのおかげを頂いていくうちには、天地日月の心もだんだんついてくる。
 けもの扁も一つ一つ自分の心から敗り除かれて行く。今日の御理解をもう一遍思うてみて下さい。けもの扁がいっぱいある。そういうギリギリの私でありましても、何とかお役に立ちたい。親先生が主演をなさるお芝居が、そこにあるならばです、どういう端役にでもよいから、使われたいという熱願を立てなければいけない。
 そして心の中にお役に立ちたい立ちたいの一念をもって、どうぞお役に使うて下さいという信心があるならばです、よしそれがけもの扁だらけの心の状態であると言いましてもです、それを神様がかぼうて下さって、御用にも使って下さる、お役にも立たして下さるということにもなる。
 今日の御理解は初め申しましたように、今日はいつもよりたくさんのお参りがあっておるから、一人でも多くの人が今日の御理解を生でこうして聞いて下さった。だからそれを皆さんにも生で受けて生々と今日から現していくという決心をね、せねばいけないということであります、どうぞ。